私たち現代人は、土や水を単なる物質として認識する傾向にあります。
しかし、一昔前の日本人にとって、大地も水も神でした。
水に関わる場所は、神さまの宿る場所として尊ばれました。
たとえば井戸も、水の神さまの宿る神聖な場所として祀られるのは通例でした。
私の生まれた地域には、地の神さまを祀る、昔からのしきたりがあます。
住まわせていただく土地を、神さまからの授かりものとして大切にする習わしです。
私たち人間がこの地球という星から誕生したことは誰も否定できない事実です。
人間だけでなく、すべての生命は驚異的叡智によって成立しています。
命も、私たち人類のような知性も、それを誕生させたのは地球というこの大地です。
私たちの通常の認識で土や水をイメージしてみてください。
この土や水を放置しておいたと考えてみてください。
水や土を放置しておいても、それが生命や人間になるとはイメージできないと思います。
このあたりに私たちの認識のずれがあるように思われてなりません。
私には、昔の祖先たちの水や大地に対するとらえ方の方が、より本質をとらえているように思われてなりません。
私たちの祖先は大地を、私たちを育む母なる存在として、私たちよりもむしろ上位に認識しました。
そのような共通認識がある時、大地は奪い合うものとはなりません。
国と国との領土の奪い合いの背後には、このような母なる存在としてのおそれおおい大地への認識が微塵も存在しなくなった人間たちの傲慢さがあるように思われてなりません。
私の育った地域の地の神さま信仰では、人は五十年すると住んでいたその大地と一つになるという考え方があります。
大地に還ると言われると、物質的な世界に還ってしまうむなしさをイメージしてしまうかもしれませんが、祖先の世界観においては、大地とは大いなる魂なのです。
私たちを育む大地に還るということは、大いなる魂と一つになることを意味するのです。
もともと人間は、大地の子という認識です。
いろんな意味で今、世界は不安定になりつつあります。
それを私たちは人間社会の枠内で解決しようとします。
しかし、現代社会の不安定さの根底にあるものは、この母なる大地を忘れた傲慢さにあるように思われてなりません。
大地が大いなる魂であり、神である世界では、人々は一つに和合し、争いは起きません。
その世界無二とも言える実例が縄文の円形集落です。
縄文の円形集落においては、人と人とが争った痕跡が見当たらず、殺害された人骨がみつかりません。
この時代、集落は基本的に円形に形成されていました。
これが、土地を所有物と見なすようになると、円形の認識は失われます。
ご承知のように、円形の土地ばかりでは、土地を合理的に分割することは不可能です。
大地を人間の所有物として分割しようとすれば、直線的に区切らざるを得なくなります。
逆に言えば、円形集落というものは、大地が所有物ではなかったことをほのめかします。
この私たちの大先輩の世界観は、新しい時代に入って完全に失われたわけではありません。
それが、連綿と受け継がれてきた信仰の一つが、地の神さまでもあると私は思っております。
私たちの日本文化には、他にも様々にこの大先輩たちの叡智の名残りを見ることができます。
10月11日に発売される『現代原理をくつがえす和の原点 縄文の円心原理』は、この現代の私たちに引き継がれていながらもなかなか気付くことができないそれらの叡智を探究した本です。
歴史と言えば、私たちは権力者の歴史ばかりを学ばされてきたような気がします。
そして権力者ばかりに人々は憧れてきたように思います。
しかし、私たちが学ぶべき大切な歴史は、他のところにあるのではないでしょうか。
権力者の歴史の下で、民衆の間に連綿と受け継がれてきた歴史の遺産が日本には存在します。
この本ではうつろいゆく権力者の歴史ではない持続的な本当の歴史を綴ることができたと思っています。
(最初の写真は、私の地域に受け継がれる地の神さまの実際の写真。
毎年12月15日に必ず壊し、各家庭で新しく作りかえるしきたりです。
かなりの手間が必要です。
わざわざ手間隙かけ、行動に表すことで、大地を敬う意識が定着する知恵なのだと思います。
現代は生活の利便性のみが優先され、一見合理的です。
しかし、人間らしい精神性を失った生活は、いつかは行き詰まります。
より本質では決して合理的とは言えないのかもしれません。
これに似た習わしは、古い文化が残る沖縄地方の一部にも見られます。)