人は家によって育つ

『縄文の円心原理』には、伝統的な日本建築の写真を多数掲載させていただきました。
現代も建てられている日本の伝統的建築の美しさには、感動された方も多いのではないかと思います。

この写真のような『縄文の円心原理』のいくつかの写真は、日本の伝統的な建築を手掛ける建築家の一人である深田真さんの許可を得て惺々舎さんのホームページの写真を掲載させていただいたものです。

人は、家によって育ちます。
私の、そのような家への観点に共感くださって家を建てられた方は、今までにも多数おり、現在もお二人の方が建築中です。
そうした方のお一人が、奇しくも私が『縄文の円心原理』を出す以前に深田さんに連絡をとっており、そのやり取りの中での深田さんからのメールを見せていただき、私は感動させられました。

熱意と真心がひしひしと伝わる文面なのです。
その一部を、ご許可をえて、掲載させていただきますのでお読みいただけたらと思います。

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正直に申しまして、〇〇様のように惺々舎の仕事を評価してくださる方は、今の世の中ではとても少ないです。ですので、この御縁は私としてはできるだけ大事にさせていただきたいと感じております。お役に立てることがあれば、それは私にとってとても嬉しいことです。

蛇足にはなりますが、惺々舎がどのような思いを持ってこの仕事に取り組んでいるのか、改めてここでお伝えさせていただきたいと思います。少し長くなりますが、どうかお許し下さい。

惺々舎は、ひと昔前の日本の伝統的な家の作り方で家を建てています。ひと昔前の家の作り方というのは、自然と共に生きるための家作りであり、人が本当の意味で幸福に生きることのできる家作りです。

ひと昔前というのがいつ頃のことかと申しますと、1945年以前のことになります。つまり、第二次大戦の敗戦後にアメリカに占領され、そのライフスタイルに強い影響を受ける前のことです。

その頃までのこの国の暮らしは、電気と石油の消費量は、今の100分の1ほどでした。アメリカと戦争をする程度には近代化されていたとはいえ、それでもまだ自然と共に生きようとする意識が残されていました。

そして、それから77年が経ちました。
家の作り方も大きく変わりました。
建材のほぼすべては人工建材に変わりました。
木を接着剤で張り合わせた合板や集成材、化学塗料、石膏ボード、サイディング、断熱材、合成樹脂など。
何故そうなるのかといえば、人工建材で作る方が経済効率が遥かに良いからです。
工場で大量生産された人工建材を使えば、簡単に効率よく家を建てることが出来ます。現場では高度な技術が必要なくなるので、熟練の職人も必要ありません。簡単な機械工具さえあれば誰がやっても、早く安く、簡単に家を建てることが出来ます。

そのように作られる家であっても、お施主様の要求には十分に応えることが出来ます。むしろ早く安く作られることで、とても喜ばれます。

ただ少しだけ欠点があります。
感受性が豊かな人にとっては、人工建材は感覚的にあまり気持ちの良いものではありません。稀にアレルギー反応が出る人がいます。
もうひとつは、ほとんどの人工建材は化学物質を含み、有害な廃棄物となって自然環境を汚染します。人工建材の多くは、自然環境の中で完全には分解されず、大地に戻すことができないので、その多くは埋め立てなどに使われます。そしてマイクロプラスチックなどの形をもって、化学物質による大地・海洋・大気・地下水などの汚染が広がっています。環境汚染は、未来の世代の遺伝子を傷つけ、生存環境を脅かします。

この国は戦後、工業化社会となり、経済成長を遂げ、何でも安くモノを買うことができるようになりました。そしてとても物質的に豊かな社会を作ることができました。しかし、家を始め、それら商品のほとんどは、大きな工場で効率よく大量生産される工業製品です。そして、それらを作る工場や現場の労働者の多くは、今では非正規雇用の若者達で、将来の保証もなく、技術が身につくこともなく、仕事にやりがいを見出すこともできず、国際競争に勝つために安い賃金で機械の一部のように使い捨てにされています。多くの企業は競争に勝つために経済効率を上げなければならないので、安心して働くことの出来る労働環境を整えたり、人を育てる余裕がありません。

つまり、戦後77年を経て、今の社会はとても豊かになったように見えますが、限りある資源を大量に使い、環境を汚染し、現代の若者の労働環境の酷さを考えると、この豊かさは未来の世代にツケを回すことで成り立っているというのが実態であるように思います。
> そのような社会の中で、自然の素材を使って、職人の手作りで家を建てることは簡単ではありません。この20~30年で、多くの腕の良い職人が、後継者がいないまま廃業して行きました。
たとえ質の良い家を建てていても、実際には、大量生産されるハウスメーカーの家の価格と比較されるので、限界まで価格を落とさなければ注文が来ることはありません。また工期も、ハウスメーカーのような短期間での工期が求められてしまいます。

自然素材によって人の手仕事で作り上げる家と、人工素材によって工場で大量生産する家とでは、比較できない質の違いがあり、手間と所要時間に雲泥の差があるにも関わらず、同じ評価基準の中で価格と時間の比較が行われ、競わされてしまいます。

自然と共生する家を作り、人を育て、未来の世代にも幸福であって欲しいという思いを、この社会で実現することはとても難しいことです。惺々舎もギリギリのところで何とか踏みとどまっているというのが実情です。

そのような中で、少しでも未来に希望の持てる社会を作りたいという思いだけを持って、何の欲もなく、惺々舎に小さな希望を見出して、うちで弟子として修行したいと来てくれる若者がいます。そのような若者たちに私の心は救われています。

私どもがこのような様々な思いを持ちながら家を建てているということを、〇〇様にはお話ししておきたいと思いました。長々と申し訳ありません。

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深田さんのような建築家が、もっとたくさん生まれ、本来の日本の家のすばらしさに多くの人が目覚めたならば、日本は間違いなく好転することになると私は思うのです。

≪最古の伝統 & 未来の融合≫ – japanese-traditional ページ! (jimdofree.com)

地の神さまと縄文の円心原理

私たち現代人は、土や水を単なる物質として認識する傾向にあります。

しかし、一昔前の日本人にとって、大地も水も神でした。

水に関わる場所は、神さまの宿る場所として尊ばれました。

たとえば井戸も、水の神さまの宿る神聖な場所として祀られるのは通例でした。

 

私の生まれた地域には、地の神さまを祀る、昔からのしきたりがあます。

住まわせていただく土地を、神さまからの授かりものとして大切にする習わしです。

私たち人間がこの地球という星から誕生したことは誰も否定できない事実です。

人間だけでなく、すべての生命は驚異的叡智によって成立しています。

命も、私たち人類のような知性も、それを誕生させたのは地球というこの大地です。

 

私たちの通常の認識で土や水をイメージしてみてください。

この土や水を放置しておいたと考えてみてください。

水や土を放置しておいても、それが生命や人間になるとはイメージできないと思います。

このあたりに私たちの認識のずれがあるように思われてなりません。

 

私には、昔の祖先たちの水や大地に対するとらえ方の方が、より本質をとらえているように思われてなりません。

私たちの祖先は大地を、私たちを育む母なる存在として、私たちよりもむしろ上位に認識しました。

そのような共通認識がある時、大地は奪い合うものとはなりません。

国と国との領土の奪い合いの背後には、このような母なる存在としてのおそれおおい大地への認識が微塵も存在しなくなった人間たちの傲慢さがあるように思われてなりません。

 

私の育った地域の地の神さま信仰では、人は五十年すると住んでいたその大地と一つになるという考え方があります。

大地に還ると言われると、物質的な世界に還ってしまうむなしさをイメージしてしまうかもしれませんが、祖先の世界観においては、大地とは大いなる魂なのです。

私たちを育む大地に還るということは、大いなる魂と一つになることを意味するのです。

もともと人間は、大地の子という認識です。

 

いろんな意味で今、世界は不安定になりつつあります。

それを私たちは人間社会の枠内で解決しようとします。

しかし、現代社会の不安定さの根底にあるものは、この母なる大地を忘れた傲慢さにあるように思われてなりません。

大地が大いなる魂であり、神である世界では、人々は一つに和合し、争いは起きません。

その世界無二とも言える実例が縄文の円形集落です。

縄文の円形集落においては、人と人とが争った痕跡が見当たらず、殺害された人骨がみつかりません。

この時代、集落は基本的に円形に形成されていました。

これが、土地を所有物と見なすようになると、円形の認識は失われます。

ご承知のように、円形の土地ばかりでは、土地を合理的に分割することは不可能です。

大地を人間の所有物として分割しようとすれば、直線的に区切らざるを得なくなります。

逆に言えば、円形集落というものは、大地が所有物ではなかったことをほのめかします。

 

この私たちの大先輩の世界観は、新しい時代に入って完全に失われたわけではありません。

それが、連綿と受け継がれてきた信仰の一つが、地の神さまでもあると私は思っております。

私たちの日本文化には、他にも様々にこの大先輩たちの叡智の名残りを見ることができます。

 

10月11日に発売される『現代原理をくつがえす和の原点 縄文の円心原理』は、この現代の私たちに引き継がれていながらもなかなか気付くことができないそれらの叡智を探究した本です。

歴史と言えば、私たちは権力者の歴史ばかりを学ばされてきたような気がします。

そして権力者ばかりに人々は憧れてきたように思います。

しかし、私たちが学ぶべき大切な歴史は、他のところにあるのではないでしょうか。

 

権力者の歴史の下で、民衆の間に連綿と受け継がれてきた歴史の遺産が日本には存在します。

この本ではうつろいゆく権力者の歴史ではない持続的な本当の歴史を綴ることができたと思っています。

 

(最初の写真は、私の地域に受け継がれる地の神さまの実際の写真。

毎年12月15日に必ず壊し、各家庭で新しく作りかえるしきたりです。

かなりの手間が必要です。

わざわざ手間隙かけ、行動に表すことで、大地を敬う意識が定着する知恵なのだと思います。

現代は生活の利便性のみが優先され、一見合理的です。

しかし、人間らしい精神性を失った生活は、いつかは行き詰まります。

より本質では決して合理的とは言えないのかもしれません。

これに似た習わしは、古い文化が残る沖縄地方の一部にも見られます。)